島の伝説や風習
 そしてお噺

神津島には様々な伝説や言い伝え、習わし、島の人々が大切にしてきた暮らしにまつわるお噺がたくさんあります。
きっとそんなお話に触れると、神津島がぐっと身近に感じられますね。
どんなことを大切にして生活してきたのか、ぜひ感じてみてください。

物忌奈命神社のルーツ~物忌奈命神社のルーツは伊豆の三嶋大社~

神々が集う神秘の島、神津島には物忌奈命神社という島民に愛され大切にされている神社があります。物忌奈命神社の父神は伊豆三嶋大社の事代主命で、伊豆との関わりもとても深いです。

物忌奈命神社は国の安寧を祈願するための祭祀が行われる重要な場で、その格式は「式内名神大社」と呼ばれ、全国に約200社しか存在しない特別な神社の一つ。
東京都には神津島の物忌奈命神社と阿波命神社の2社しかありません。

海から続く石階段を登るとタブの木の参道が出迎えてくれます。ゆったりと進む石階段は苔が生え、古き良き趣きを感じることができます。昔は、神社境内でおじいさんたちが巾着漁に使う網を編んだり、子供たちが虫取りをして遊んでいました。今もなお、島民の憩いの場として暮らしに寄り添っている神社です。

物忌奈命神社の由来〜かつお漁の恵みで神社を再建した〜

文化文政の頃(江戸時代)、神津島ではかつおがたくさん獲れました。島の人々はこのかつおを鰹節に加工し江戸に送って売りました。神津島の鰹節は伊豆七島で一番の高値で取引され島の人々は大金持ちになりました。

島の人々は手にしたお金の使い道をあれこれ考えました。ある若者が「物を買ってもすぐになくなってしまうから、みんなが敬っている寺や神社を建てたらどうだろう」と提案しました。最初は反対意見もありましたが、最終的にはみんなが賛同し「そうだ、そうしよう」と決まりました。

こうして、島の人々は伊豆から大工を頼み材料を揃え、毎日毎日共同で働き続けました。そしてついに立派な神社とお寺が完成しました。

この出来事をきっかけに神津島の人々は代々神社とお寺を大切にし、ますます神と仏を信仰するようになりました。水不足、食糧難、飢饉など、数え切れない苦しみや哀しみを乗り越えてきた島の人々は、裕福になった時にもご先祖様を敬い、後に続く子孫の幸せを祈り続けたのでした。

島で行われるかつお釣り神事~国の重要無形民俗文化財に指定された神事~

神津島の漁業は古くからかつお漁を中心としており、『伊豆海島風土記』にもその品質の高さが記されています。また、明治初期まで島民の税は鰹節で納められていたと伝えられています。このような背景からかつおの豊漁を願い、感謝を捧げる神事が行われるようになりました。

毎年8月2日、神津島の物忌奈命神社の境内では「かつお釣り神事」が行われます。この神事は、古式にのっとったかつお釣りを再現し、漁師たちが島民をかつおに見立てて釣り上げる行事です。神社の境内には活気あふれる漁師たちが駆け回り、島民たちもその様子を楽しみます。神事に使う竹で作った船には、日向神社横の真竹が使われています。

この「かつお釣り神事」はただの伝統行事にとどまらず、島民たちがかつお漁への感謝を捧げ、豊漁を祈る大切な神事なのです。2024年3月21日時点で「日本の重要無形民俗文化財」は300件以上が指定されていますが、「かつお釣り神事」もその一つとして認められています。これは、神津島の文化と歴史がいかに豊かであるかを物語っています。

神津島の人々は神々との深い絆を大切にしています。かつお漁を通じて得られる豊かな恵みに感謝しその感謝の気持ちを神事として表現することが島の文化とされています。神様と島民たちの関わりはこの「かつお釣り神事」によって代々受け継がれますます深まっています。

神津島の物忌奈命神社で行われる「かつお釣り神事」はこれからも島民たちの心を一つにし、神様への感謝と祈りを込めた大切な行事として続いていくことでしょう。

神社の御神木はなぜイチョウ?~イチョウは神社を守っている~

イチョウは他の木に比べて葉が厚く水分が多いため燃えにくく火に強い性質があります。そのため、寺社仏閣によく植えられ耐火樹木としても活用されてきました。

また、イチョウは地質時代のジュラ紀に繁殖した樹木であり日本には自生していないため、中国から移入されたと考えられています。仏教と共に伝来し、寺社などに植栽された可能性が高いです。

イチョウは日本各地でご神木としても使われています。例えば乳房のように垂れ下がる根が子供の成長や母乳の出を祈願する象徴とされたり、沢山の実をつける姿が子宝や子育ての信仰を象徴する地域もあります。

ご神木のイチョウと同時期に植えられたと考えられる物忌奈命神社のイチョウを調査した結果、樹齢は約170年と推定され江戸時代後期から明治初期にかけて植えられたと考えられます。この個体は4本の樹幹から成ります。

推定樹齢約170年というと、嘉永から安政にかけて江戸時代後期から明治初期にかけての幕末時代です。1853年(嘉永6)6月ペリーが浦賀にし7月ロシアの使節プチャーチンが長崎に来航して、共に開国を要求した頃に植えられたと考察でき、歴史ロマンが感じられます。

「うろ覚え」の語源は樹木から!?~「うろ覚え」のマメ知識~

穴が空いている樹木で生きているのは、形成層といわれる一番外側の部分だけです。内部は死んでいるので、腐っていき空洞になります。この空洞のことを「ウロ」といいます。

穴では熊が冬ごもりしたり、旅人が雨宿りしたり、民話においては精霊が住んでいたりします。がっしりとした幹のなかに大きな穴を抱えている、こうした木の状態が「うろ覚え」という言葉の語源ともいわれます。ちゃんとしているように見えて実は中が空洞、つまりあいまいという意味です。

知られざる神津島の守り神〜噴火を鎮めた薬師如来〜

この神津島は、かつて銭洲(ゼニズ、神津島から南西に約36キロ)にある岩礁まで陸続きの大きな島で、島の人々は面房(めんぼう)や焼山(やきやま)といった島の南西側の山の地域に住んでいました。

島は豊かで美しい自然に囲まれていましたが、ある時から島に火山の噴火が続くようになりました。大地が揺れ、火山灰が空を覆い、島の人々は恐怖におののきました。噴火は止むことなく続き、その度に島は少しずつ小さくなっていきました。ついには島は銭洲と離れてしまい、人々は孤立した島で生きることを余儀なくされました。

その頃、島には薬師様という優しい神様が祀られていました。薬師様はこれ以上島が小さくならないようにと尽力されました。島の人々は薬師様に祈りを捧げ、島がこれ以上縮小しないように願いました。その祈りが通じたのか、噴火は次第に収まり、島はそれ以上小さくならず今の形で残ることができたのです。島の人々は大いに安堵し薬師様に深く感謝しました。

その後、島の明神様である物忌奈命(ものいみなのみこと)は薬師様の功績に感謝し、薬師様を面房から自らの近くにお招きしました。こうして、薬師様は明神様の境内に祀られるようになったのです。

これが、神津島の薬師様と明神様の伝説です。島は今もその美しい姿を保ち、人々の心の中に深く刻まれています。

阿波命神社の由来〜三嶋大社の神、事代主の正妻を祀る〜

阿波命神社は、伊豆三嶋大社の神である事代主命の正妻の阿波命を祀った格式の高い神社です。この神社は古くからの伝統と歴史を持ち、神道の信仰の中心として重要な役割を果たしてきました。
事代主命は出雲神話に登場する神であり、商売繁盛や豊穣、漁業の守護神として広く信仰されています。その后神として阿波命は特に重要視され大切にされてきました。

阿波命神社はその格式の高さから、物忌奈命神社と同様に式内名神大社に加えられています。式内社とは古代の律令制に基づき、国家によって定められた格式の高い神社のことで、特に重要な祭祀や行事が行われる場所とされています。名神大社とは、これらの中でも特に重要な神社を指し、阿波命神社はその一つに数えられています。

神社の境内には静寂と荘厳さが漂い、訪れる者を包み込む神聖な雰囲気があります。参道を歩むと四季折々の自然の美しさが感じられ、神々の存在を身近に感じることができます。また、阿波命を祀る本殿は美しい木造建築であり、その細部に至るまで丁寧に彫刻が施されています。

毎年行われる長浜祭では多くの島民が訪れ、阿波命へ参拝します。この長浜祭は地域の人々にとっても大切な行事であり、伝統文化を守り続ける重要な役割を果たしています。

思いを届けるお参り〜阿波命神社と潮花(しおばな)の習わし〜

長浜海岸の奥深く、静かに鎮座する阿波命神社は、その歴史と格式の高さから多くの参拝者を迎えています。この神社の鳥居や本殿前の階段には参拝者が供えた平らな小石が見受けられます。これらの小石は波に洗われた砂と共に供える「潮花(しおはな)」と呼ばれるもので、神社に伝わる特別な習わしの一つです。

潮花は大漁の祈願や船出の安全を祈る際に供えられます。古代から続くこの習わしは、海との深い関わりを持つ神々への敬意と感謝の表れです。潮花を供えることで海の神々に対する祈りを捧げ、そのご加護を願うのです。
古代の人々は神々が海から来訪すると信じていました。海は神聖な場所であり、そこにある砂や小石にも神が宿るとされていました。そのため海辺で拾った砂や小石を神社に供えることで、神々の力を借り、祈願を成就させると考えられていました。潮花はまさにこの信仰を象徴するものです。

阿波命神社では潮花が鳥居や本殿前の階段に丁寧に供えられています。これらの小石と砂は参拝者一人一人の願いを込めたものであり、神々に対する深い敬意と信仰の表れです。参拝者は海辺で拾った小石を手に、心の中で願いを唱えながらそれを供えます。その行為自体が、神々とのつながりを強く感じさせるものとなっています。

島民は阿波命神社を正式参拝する際や、願い事を届けに行く時「潮花」を供えています。

決して持って帰ってはいけない石〜持ち出すと神様が怒ってしまう長浜の石〜

長浜海岸は「五色浜」とも呼ばれ、その海岸には青、赤、黄、黒、白の色とりどりの玉石があります。この五色浜には事代主命の后である阿波命が、他の后たちの宝石を奪い、それが玉石となったという伝説があります。また、海岸の石を持ち出すと神罰が下るとも言い伝えられています。

『続日本後紀』には、仁明天皇の時代に「美麗な五色浜」が神津島にあると記されています。長浜は砂浜ですが、昔から色とりどりの綺麗な小石で埋まり、五色の浜として有名です。長浜の祭神である長浜御前が神前の浜に飾られた五色の石を持ち去ることを忌み嫌ったため、石を持ち帰ると祟りがあると伝えられています。

三嶋大明神には伊豆諸島に多くの后がいますが、阿波命が本后とされています。しかし、三嶋大明神が他の后に先に冠位を授けたため、承和七年(840年)の大噴火は阿波命の祟りと考えられました。このような伝説が五色浜の石を持ち帰ることを避ける習慣を生み出しています。

女神がひらいた賑やかな宴〜三味線と太鼓を奏でた伝説の松〜

長浜に近い「めいし」という地区の傍には、二本の古い松の木が立っています。これらの松は、昔からこの場所を通ると三味線と太鼓の音が聞こえると村人たちに伝えられており、「三味線松」と「太鼓松」と呼ばれています。

伝説によれば、伊豆の島々を焼き出して作り上げた事代主命は各島に一人ずつ后を置き、長浜には阿波命が祀られていました。阿波命は事代主命の本后とされ、その格式は非常に高いものでした。事代主命が神津島に訪れた際にはこれらの松から聞こえる三味線と太鼓の音で迎えられ、また送り出されたとされています。

『三宅記』や『続日本後紀』によれば事代主命には八人の妃があり、彼女たちは事代主命の関心を得ようと競い合っていました。阿波命はその高い地位を示すため、他の后神よりも盛大な饗宴を開いていました。

天長九年(832年)、伊古比咩神が神位を授かったことに怒った阿波命は、承和七年(840年)に神津島で大噴火を引き起こしました。彼女の怒りを鎮めるため伊豆国の官人たちは都に報告し、急ぎ二神(物忌奈命と阿波命)に従五位下の位(日本の神様の位)を授けました。

事代主命が阿波命を訪れると、二本の松の上に配された女神たちが三味線と太鼓を奏で、心からの接待が行われました。左が三味線松で、右が太鼓松と呼ばれ、これらの松は枯れると再び同じ位置に同じ形で成長すると言い伝えられています。

神津が飢餓から救われた伝説〜神津のソウルフードの一つとなったさつまいものお話〜

むかし昔、享保の飢饉といって、食べるものがなにもなくなった時代がありました。親も子もお腹を空かせて死にそうになりました。そして親は少しの食糧を得るために、山に行き、ウラシマソウやら山芋などを獲ってきました。でも、村中の人が食べるだけの山芋はありません。

子供に食べさせる食べ物を探し歩いて、あっちこっちで生き倒れてしまった人たちもいました。その人たちの為に村の人は地蔵様を作ってやりました。

江戸時代の中頃、青木昆陽(あおきこんよう)という学者さんが、伊豆七島の食糧難を聞くと、「島に流された流人や島の人たちを救うためにさつま芋の苗を島に送って下さい。」と殿様にお願いしました。殿様は、「よし、その願い、聞き届けよう」こう言って許して下さいました。

こうしていよいよ芋の苗が島に届いたので、村中の人達は大喜びでした。島の人は山も畑も耕して沢山のさつま芋の苗を植え、秋には立派なさつま芋が山ほども出来ました。
けれども、島の人々は獲れたさつま芋を蓄える方法を知らなかったので、芋はたちまち腐ってしまいました。島の人達が困りに困っていた時、漁に出ていた徳左ェ門という人が九州のさつまの国まで風で吹き流され、そしてちょうど1年やっとの思いで神津島にたどり着くことが出来ました。

徳左ェ門は九州で覚えたさつま芋の蓄え方を村の人に教えました。それから島では食物に困ることがなくなったのだそうです。徳左ェ門はほうびに村から土地をもらいました。また、青木昆陽は、村の人が「よたね様」という祠を作り、大切に奉って、今もその祠が¨よたね¨という所にあります。

島民の逞しさ〜生きることは食べること〜

神津島では、昭和30年代頃までは篠竹を使って野鳥を捕まえるワナを作り、それらを焼いて食べていました。食べ物が豊富になってからはこの習慣は自然と行われなくなりました。

江戸時代には徳川幕府の政策で連れてこられた牛が山に放牧されていました。これらの牛は美味しく食べられることが分かり、島民たちは崖に牛を追い込み、落として捕まえる方法で食べていました。その名残でしょうか、この場所は「牛根」と呼ばれています。

また、昭和50年代頃まで畑や庭で鶏を飼って卵をとっている家もありました。しかし、その頃は野良犬や庭に出没する蛇が多く、鶏や卵がしばしば襲われることがありました。

このように神津島の人々は自然の恵みを活用しながら生活し、時代と共にその生活様式も変化していったのです。

自然の生命力・明日葉〜今日摘んでも、明日また生えてくるから明日葉〜

明日葉はセリ科の野菜であり、年間を通じて収穫できることで知られています。その中でも、春と秋に採れる明日葉は特に美味しいとされています。その名前は、今日採っても明日には新しい芽が出てくるほどの強い生命力から「明日葉」と名付けられたと言われています。

この生命力豊かな明日葉は島民や観光客に広く愛されており、中でも、「明日葉の天ぷら」や魚と一緒に煮込んだ「明日葉汁」は、島の郷土料理として人気があります。

さらに、明日葉を使ったクラフトビールも楽しむことができるお店があります。明日葉の独特な風味がビールに絶妙にマッチし、訪れる人々に新しい味覚の体験を提供しています。

このように明日葉はその強い生命力と美味しさで、島の人々の生活に深く根付いています。

信仰心厚い神津島〜お年寄りや先祖を大切にする心〜

むかし昔、島の家々が大変に貧乏だった頃のことです。どこの家でも食べるものが少ないので、おばあさんたちは少ししか食べようとはしません。又三の家のばあさんも同じでした。「おらぁ食うもんばいいよ」おばあさんは、言いました。でも家の人はおばあさんになるたけ食べさせようとしました。

「ばあさん、長生きをしてもらわなきゃあだしかい(だめだよ)、たのむしかい食べてーよ」でも余り食べません。「もう歳だし、きまりだしかい(だから)、はやく、おいをおぶって秩父へ上って、おいてけやー」おばあさんはこういうばかりです(秩父山は、昔姥捨山のような場所でした)。

そのむすこの又三は涙ながらにおばあさんを秩父へつれてゆきました。そして、又三は自分の食べ物をそっと懐に入れて、毎日毎日秩父山まで運ぶのでした。それを知った家族も、同じように、「とうちゃん、今日はおいがいかー(自分が行く)」といって、同じように少ない食べ物を分け合って運びました。そして寒いのではなかろうかと着替えも運んだりしました。

こうして秩父山の頂には、いつしか艱難辛苦に耐えた御先祖様の霊が住むと考えられるようになりました。この世の苦しみを少しでもなくし、苦労の果てにこの世を去った人々が極楽浄土に行けるよう、島の人達は折りおりにお経をもうしてはご先祖様への供養をして島人の幸せをお祈りするのです。

東京の名湧水57選の一つ・多幸湧水〜湧水豊かな神津島の水配り伝説〜

伊豆の島々は島焼きで島がつくられた以来、水不足に悩まされてきました。特に利島の水不足は深刻でした。

ある時、伊豆七島の神々が神津島の天上山に集まり水の配分について話し合いました。しかし、どの島も水が乏しいため話はまとまりませんでした。そこで翌朝、先着順に水を配ることにしました。

翌朝、一番にやってきたのは御蔵島の神さまで、続いて新島、八丈島、三宅島、大島の神さまが到着しました。最後にやってきたのは朝寝坊をした利島の神さまでした。約束どおり先着順に水が分けられましたが、利島の番になった時には火口跡の池には泥水しか残っていませんでした。利島の神さまは怒って池の中をかき回して帰りました。そのため、利島は特に水に困ることになったのです。

一方、神津島では利島の神さまがかき回した跡から水が湧き出しました。水不足に悩んでいた利島には、かつて神津島の利島川から船で水を運んだという話もあります。神津島は水が豊かで、特に「多幸湧水」は「東京の名湧水57選」にも選ばれています。この豊かさは「水配り伝説」として語り継がれています。

昔の子供のおやつだったシイの実〜スダジイ(神津ではシイノキ)〜

昔、神津島では子供たちがスダジイの実を取って煎って食べていました。私たちが通常「どんぐり」と呼ぶのは、細長いまたは丸くてつるつるした茶色い実のことです。このどんぐりの木は日本には22種類あり、そのすべてがコナラやクヌギなどの「ブナ科の木」に属しています。中には日本固有種もあります。

どんぐりがなるブナ科の木は、「コナラ属」「マテバシイ属」「シイ属」「クリ属」「ブナ属」の5つの種類に分けられます。スダジイはその中の「シイ属」に属し、神津島ではスダジイを「シイノキ」、その実を「シイの実」と呼びます。

また、天上山の樹木は強風の影響で低木の木が多く、スダジイの樹高は1m程ですが枝の分枝状況から樹齢は50年程と推測されます。海辺近くのスダジイは樹高が10mを超すものが普通ですが、海抜200m足らずの天上山では同じスダジイの樹高が1m程度に抑えられており、長い年月にわたり生き続けています。この対比は大変珍しく、厳しい生育環境に順応した風衝樹形の樹木を持つ天上山の植生は稀有な存在です。

昔は銭州まで、陸続きだった?〜海底に眠る地形ロマン〜

約1万2千年前の最終氷河期の時代、海面は現在より120〜140メートルほど低い位置にありました。

この時代の地形について、島にはいくつかの言い伝えが残されています。特に神津島は昔、銭州海域(神津島の南西約40kmに位置する岩礁群)まで陸続きだったと伝えられています。

新島と式根島の間の海域は水深が30メートル未満と浅く、これらの島々はかつて陸続きだったと考えられています。この地域は、江戸時代の元禄時代に起きた大地震によって分離したとされています。

地質学的な視点から見ると、銭州海域、新島、式根島、神津島は最終氷河期の低海面時代に陸続きだった可能性があります。島の伝説と地質学的データを組み合わせることで、神津島や周辺の島々がどのように形成され、分離していったのかを理解することができます。このように、島々の形成と分離に関する伝説は地質学的な事実に基づいている可能性が高く、地形ロマンに思いを馳せることができますね。

神様には榊、仏様にはシキミ(コウの木)〜生活に密着した樹木、榊とシキミ〜

神津島では、榊(サカキ)とシキミ(島では「コウ」と呼ばれる)を重要な儀式や生活の一部として用いています。神棚には榊が、お墓にはシキミが供えられるのが一般的です。多くの家では榊やシキミを畑に植えており、特に榊は天上山から採取してきて畑に植えたと言われています。各家庭には神棚と仏壇の両方があることが多く、榊とシキミは身近な樹木として親しまれています。

榊はツバキ科のサカキ属に分類され、「境の木(神様の住まわれる世界と人間の世界を隔てる木)」「栄える木(常緑樹からきている)」「神聖な木(賢木)」などの意味があります。

常緑であることから、「永遠」や「不変」の象徴とされ、神聖な儀式に用いられます。神式の葬儀や祭り、神社での儀式などで広く使用され、神聖な場所を示すシンボルとしても重要です。

シキミは仏教の葬儀や仏事に使用されることが多く、その強い香りと毒性から、「故人を獣などから守り、正常な状態に保つこと」を目的として供えられます。シキミの木は「冬でも葉を落とさないシキミは、永遠の象徴」とされ、仏教においても重要な役割を果たしています。

シキミは「一本花」とも呼ばれ、お釈迦様の弟子が花を一本持ち歩いているときにお釈迦様の入滅を告げられたという逸話に由来します。これは一本の花が持つ象徴的な意味を強調し、シキミが故人の魂を守る役割を果たすとされています。

神津島では自然と共に生きる文化が根付いており、榊とシキミはその象徴でもあります。榊は神々の存在を感じさせ、シキミは仏教の教えと結びついています。これらの木々を通じて島の人々は自然と調和し、先祖や神仏との繋がりを大切にしています。

染料にも床柱にもなった木・モッコク〜生活に密着した樹木・モッコク〜

モッコク(木斛)は、サカキ科に属する常緑高木です。神津島では古くからモッコクの木が様々な用途で利用されてきました。その代表的な利用方法には、巾着漁の網を染めるための染料としての使用がありました。

昔、漁師たちはモッコクの皮を煮出して染料を作り、巾着漁の網を染めていました。モッコクの皮から得られる染料は、網を丈夫にし長持ちさせる効果がありました。この染料は天然素材でありながら高い防腐効果を持ち、漁業の発展に貢献しました。

さらに、モッコクの木は建材としても重宝されていました。特にモッコクの木に傷をつけると、その部位がボコボコした形になる特徴がありました。この独特の形状が好まれ、モッコクの木は家の床柱としても使われることが多かったのです。床柱としてのモッコクは家屋の装飾的な要素としても重視され、美しい木目と独特の形状が室内空間に風格を与えました。

神津島におけるモッコクの利用は単なる素材としての価値だけでなく、島の文化や伝統とも深く結びついています。漁業の道具や家屋の建材としてのモッコクは、島の自然環境と調和した生活の一部として重要な役割を果たしてきました。

生活に密着した樹木・竹〜大活躍していた竹〜

神津島では、シノダケ(メダケ)が生活に密着した資源として古くから利用されてきました。メダケはイネ科の多年生常緑笹で、細くて柔らかいことから名付けられました。神津島で竹がどのように利用されていたのか見てみましょう。

ー生活の中での利用ー

●イボジリ
シノダケを玄関左右に置き、二十五日様(旧暦の1月24日〜25日に島にやってくる、決して見てはいけないとされる神様)をお迎えする儀式で使用されました。

●かつお釣り神事
マダケをかつお釣りの船に使用。神津島では日向神社の横に生えているものを使いますが、真竹は少ないです。

●竹垣
家や土地の囲いとして使用され、風よけや境界の役割を果たしました。

●竹カゴ
荷物運搬用のカゴとして利用されました。

●竹竿
子供たちがシノダケで作り、凧糸と鉛の重しをつけてタッカ(かに)釣りに使用しました。

●正月の凧揚げ
枯れたシノダケを凧の骨組みとして利用。

●葬式の花篭
花を入れる篭として使用。

●箒
昭和初期の子供たちは渋谷笹を取りに行き、箒の材料として使用。

●遊び道具
昭和初期の子供たちはシノダケを使って水鉄砲や竹馬、クビス(鳥を捕まえる罠)などを作りました。

神津島では竹がさまざまな形で日常生活や文化に根付いており、その利用方法は多岐にわたります。竹を通じて、島の人々は自然との共生を大切にしていました。

謎の石立〜謎の石立の、岩の丸い模様は地衣類(チイルイ)〜

神津島には流紋岩の巨石を砕きながら根を張り育つ樹木があり、「謎の石立」というパワースポットとしてその生命力の力強さを感じさせます。

この珍しい景観は神津島の成り立ちと豊かな自然が生み出したものであり、岩には地衣類が生えて趣を添えています。(地衣類は菌類と藻類(主に緑藻やシアノバクテリア)が共生して形成される複合体です。)

この「謎の石立」は島民の郷土史研究家が仕事中に偶然発見し、その不思議な姿に感銘を受け、「謎の石立」と名付け、看板を設置しました。名前をつけて看板まで作ってしまう、なんともユーモラスなお話です。

原生林を思わせる森林遊歩道〜多幸エリアのヒーリングスポット〜

多幸湾キャンプ場の上には、シダに囲まれた美しい遊歩道があります。この遊歩道はまるで原生林の中を歩いているかのような雰囲気を持ち、森林浴に最適な場所です。適度な湿度と木漏れ日の中でシダが豊かに育ち、その自然環境が訪れる人々に心地よさを提供します。

植物は葉や幹からフィトンチットという空気を清浄にする物質を放出しており、その空気を吸うことで心地よさや、リフレッシュ効果を感じることができます。

猫又伝説〜島に住んでいた恐ろしい妖怪〜

むかしむかし、神津島の日間のあたりにネコマタという妖怪が住んでいました。ネコマタは口が赤く裂け、尾が二つに分かれた大きな山猫で非常に恐ろしい存在でした。

多幸の港に魚が大量にあがると、その魚の匂いを嗅ぎつけてネコマタが必ずやって来ました。ある時、一人の漁師がネコマタに遭遇しました。ネコマタは人を噛み殺す勢いで漁師を追いかけてきました。漁師は恐怖に駆られ、捕った魚を一匹ずつ道に投げながら必死に逃げました。しかし、やがて魚はすべてなくなってしまいました。

漁師は秩父山の地蔵様の前まで逃げ込みました。すると地蔵様の目が光り、ネコマタはその光を恐れてそれ以上追いかけてくることはありませんでした。このようにして漁師は命を救われました。

多幸の砂浜にはネコマタの足跡が残されていることがありました。その足跡を見た人は、夕方になる前に急いで峠を越えなければならないと言われていました。ネコマタは魚を好み、時には人に化けたり取り憑いたりするため、多幸で魚が大量に取れた時には特に注意が必要だと伝えられていました。

この伝説は神津島の人々にネコマタの存在を恐れさせるとともに、地蔵様への信仰心を深めるものでした。ネコマタの話は今でも島の人々に語り継がれています。

多幸と昔の村の話〜集落は3つあった〜

神津島の多幸湾には、天上山の切り立った断崖とコバルトブルーの美しい海が織り成す、まるで箱庭のような景観が広がり、朝日が美しく輝く姿を浜辺で見ることもできます。この湾には「丸島」と呼ばれる美しい島もあり、その風景は訪れる人々を魅了します。

また、多幸湾は西風が吹き荒れる季節には第二の港として機能しており、現在も漁業者にとって便利な場所となっています。この湾は、島の人々にとって欠かせない存在であり、自然と人々の生活が共生している場所です。この湾の入江一帯は、かつて陸地であったと伝えられており、昔はこの地にも人家があり、広い神社境内が存在していました。当時、この地域は多幸村と呼ばれ、現在の集落は中村、宇長浜には長浜村があったとされています。

多幸湾の近くには、日向大明神という神が祀られています。この神社は奥まった場所にあり、阿波命の御子神であるタウナエ王子を祀っています。タウナエ王子は若くして天に召されたとされ、その御身体は鏡で表されています。

多幸湾の海底に沈む樹木の伝承〜海底樹木ロマン〜

神津島は優れた港と豊かな漁場に恵まれ、古くから漁業が盛んな地域です。船が着く前浜に面して集落が広がり、かつては長浜や日向の地にも集落が存在していたと言われています。

多幸湾に面した日向の地の海底には松の木の姿が見られたという伝説があります。これは、津波によって流されたものであろうと考えられています。現在では、長浜や日向には人家はありませんが、古地図には長濱村、多子村、中村と記されていることから、かつてこれらの地域に集落が存在していたことは事実であろうと推測されています。

多幸湾はその美しい景観とともに、神津島の歴史と文化を語る重要な場所です。湾の海底にあったとされる松の木の、自然の力と人々の生活が織り成す物語を物語っています。また、古地図に記された村々の存在は地域の歴史的な価値を示しています。

だいだいあらしという地名は製鉄の名残?〜古代タタラ吹きとの関係〜

神津島の多幸湧水のあたりは、かつて「だいだいあらし」と呼ばれていました。この名称についてはいくつかの説があります。昭和30年代頃までこの地域は傾斜のある砂地で、お正月に飾った橙を転がして遊んだことから「だいだいあらし」と呼ばれるようになったという通説があります。

また、もう一つの興味深い説があります。多幸は昔から砂鉄が取れる場所として知られており、「だいだいあらし」という地名は古代タタラ吹きの名残ではないかという説です。タタラ吹きとは日本古来の製鉄法で、砂鉄を用いて鉄を作る技術です。この技術が行われていた場所には、しばしば独特の地名や風景が残されていることが知られています。

「だいだいあらし」という地名が橙を転がす遊びに由来するという通説も魅力的ですが、古代タタラ吹きとの関連を考えると神津島の歴史がさらに深みを増します。多幸湾周辺で砂鉄が採れたことはこの地域が製鉄の拠点であった可能性を示唆しており、その名残が地名に反映されているのかもしれません。

花正月〜祠は「ほうそう神様」とも呼ばれている〜

神津島の昔の風景のお話で、神津島では1月14日は花正月といい、子供の無病息災を祈る行事が行われます。夕方、島の子供たちは赤い椿の花や団子、小さな餅を持って「塞の神」へお参りに行きます。

子供たちは歌を歌いながら祠(ほこら)へ向かい、お供えをします。お参りの後には椿の枝だけを残し、お団子は子供たちがいただきます。終わると、裏山からシッチリバッリ(とべら)の枝を折って家に飾ります。暖炉でその枝を燃やすとパチンパチンと音がし、これが今でも頭の腫物を防ぐおまじないとされています。

昔、この島では疱瘡(ほうそう)が流行し、子供たちが多く亡くなっていました。この祭りはその厄災を避けるためのもので、祠は「ほうそう神様」とも呼ばれています。

現在は保育園の子どもたちが、ほうそう神様に椿の花をお供えして健康を祈ります。昔から伝わる神津島の伝統行事の一つです。

踊る臼のお話〜島に伝わる踊る臼の伝説〜

神津島の北側の山は木々や草が繁り、山と谷が高く深くなっています。昔、村の大半が火事で焼けたとき、島の若い衆は毎日7~8キロの山道を歩き、切った杉の木を村まで運びました。運んでもらった家の人は「トノゴラー、ありがとうよー」と感謝し、若い衆はその一言で疲れが吹き飛びました。(※トノゴは若い男性たちを意味します)

当時は車で奥山まで行ける道がなく、急な山や坂を「ヨイサナ、ヨイサナ」と声を掛け合いながら木を運びました。ある日、村のおばあさんに頼まれて正月の餅つき用の臼を作るために、三人の若い衆が大きな木を切りに行きました。奥山で一日がかりで木を切り臼の形ができたので、「神童子が河原」で休憩していると、不思議な音がしました。恐る恐る音のする方へ行くと、大きな臼が踊っていました。三人は驚いて村に戻りその話を皆に伝えました。その後、「神童子が河原」は怖がられて人があまり行かなくなりました。しかし今では道路ができて便利になり、臼が踊ることはなくなりました。こんなお話も神津島には残っています。

イブキ(ビャクシン)とソテツについて〜自然の力と人々の信仰が織り成す美しい調和〜

物忌奈命神社の本堂の横には、イブキ(ビャクシン)とソテツが寄り添うように並んで生えています。

特に注目すべきものが、イブキです。このイブキは幹周が382cmに達しており、日本の巨樹・巨木林の要件(環境省では、原則として、地上130㎝の幹周りが300㎝以上の木を巨樹と定義しています)を満たします。このような巨木が神社の境内に存在することは、自然と人々の信仰が調和し、互いを称え合っている証拠と言えますね。

また、このイブキは、江戸時代後期に神社が再建された頃に、伊豆から移植されたものと考えられています。当時の人々の手によって植えられたこの木は、何世代にもわたって成長し続け、今では神社を見守る存在となっています。

物忌奈命神社の本堂の横に立つこのイブキとソテツは、自然の力と人々の信仰が織り成す美しいつながりを表現してくれているように感じます。

島の人々の自然への敬意〜逞しさと優しさ〜

神津島には悲しい話や恐ろしい話、食べ物にまつわる話など、多くの伝説や民話があります。この島では生きることと食べることが密接に関連しており、食べ物のために働くことが重要とされてきました。しかし狭い土地しかないため、食べ物が不足することが何度もありました。
神津島の人々は現在でも朝夕二回、先祖の墓に花を捧げてお祈りを欠かしません。さらに山や川、木や草、神社などの自然や神聖な場所を大切にしています。この信仰心と自然への敬意が島の生活を支え続けています。
限られた資源を有効に活用するために島の人々は多くの知恵と工夫を凝らしてきました。食べ物が不足する中でも、自然の恵みを大切にし先祖や神々に感謝する心を持ち続けています。
このような神津島の伝説や民話は島の歴史と文化を理解するための貴重な物語です。島の人々の信仰心や自然との共生の姿勢は、現代でも変わらず続いています。神津島を訪れる際にはこれらの伝説や民話に触れることで、島の魅力をさらに感じることができますね。