流人墓地

EXILE tomb

旧跡・名所

伊豆諸島が流刑の地として定められたのは、奈良時代の新亀元年(724年)といわれているが、小さな島は流人の受け入れにより島の生活が脅かされる状況を考慮して除外されていました。江戸時代に入ってから、徳川幕府は、寛保二年(1742)に、お定め書百カ条を交付し流刑を遠島と言い、その流刑地を伊豆諸島と定め、江戸近辺の犯罪人を島送りにしました。

流人墓地について

先ず遠流の地として、八丈島、中流の地として三宅島、近流の地として大島、新島を定めて犯罪者を送り、神津島、御蔵島は島替えと言い島で再び罪を犯した者を送り込みましたが、この島は地形、食糧の面から流人を大勢送ることはなかったようです。島に送られた流人の生活は「日常勝手たるべし」とされて、すべて自活することが原則で、見届け品という「仕送り」を受ける一部の流人や、手に職のある者を除いては、その日その日の食を得るために、島の人の食糧を得ていたようです。神津島に送り込まれた流人の数はよくわかっていませんが濤響寺の過去帳によると、おたあジュリア 慶長十七年(1612)、不受不施派僧(注1) 寛文五年(1665)、絵島生島関係(注2) 正徳四年(1714)となっています。

基本情報

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